マウンティング
「マウント」について少し書いてみようと思います。
あ、これは誰かを評価したり、優劣をつけたい話ではありません。
あくまで、私自身の内側で起きたことの記録です。
少し前に、大切な友人だと思っていた人から、いくつかの数字で測れるものを比較されるような出来事があり、
心が乱れたので整理するためにここに残しておこうと思いました。
でもマウントを取られた時点で、その関係はもう「友達」とは呼べないのでしょうかね…。
そんな疑問が、ずっと頭から離れません。
毒親家族と完全に疎遠になり、
「これからは友達を心の家族のように大切にしよう」
と決めた矢先の出来事でした。
だからなぜ毒親家族の大好物な「マウント」を、友だちから受けなければならないのか?
と心が折れてしまい、帰宅後もしばらく立ち直ることができませんでした。
そのあと、一人反省会。
もしかしたら私は
「彼女は私と同じ価値観を持つ人に違いない」
「この人だけは手放してはいけない」
そんな彼女への期待、依存、執着が大きかったのかもと気が付きました。
結局、私が勝手に期待して、勝手に裏切られたと感じていたのかもしれません。
そして、同時に
「私はまだあの毒親家族から完全に自由になれていない」
と自覚もしました。
家族と同じような匂いのする人を引き寄せてしまったのかもしれませんし、
もしかしたらマウントを取りたくなる「なにか」を私自身が発していた可能性もあります。
二人の価値観がほぼ真逆ほどに違い、住んでる宇宙が違うことが明確になった感じでした。
私は「みんな違ってみんな良い」の信念があって、皆「その子だけの光」を持っていて、それを輝かせてほしいと願っています。
そう考えると、人を測るための数字やステータスは意味を持たなくなる世界が見えてきます。
理想論なのはわかっていますが、それでもそんな調和の世界を望んでいるのです。
数字やステータスに重きを置くのが、いまの社会で生きる以上逃げられないのはわかっていますが、それでもその「社会の物差し」だけにしがみつかないでほしい。
あの日、私の心が折れたのは、私が大切にしている尊い信念を、一番信じていた相手に否定されたと感じたから。
もちろん、私も他人にマウントをとります。
以前は取って、取られて、感情は優越感と劣等感の間を行き来するジェットコースターのようでした。
今も取ります。
だけど、今はマウントを取ってる自分に気づき、その体感や感情に寄り添い、
「私は認められたいんだな」「私は負けてると思い、不安なんだな」と内観し、
「でも私は私でしかいられないのだよ」「このままの私でいいんだよ」と静かに語りかけます。
マウントを取る時、自分がまだ手放せていないものが、はっきりと浮かび上がります。
さて、今後の彼女との関係はどうなるのかはわかりませんが、健全な境界線を引いて向き合って行きたいと思います。

